「驚嘆、飛翔、篤信」と――千夜千冊のあの人が〝心中〟しかねないほど入れ込んだ世界屈指の古典に、挑む!
ダンテの『神曲』(平川 祐弘版単行本)を読む。
“読む”という意味でなら「初めてひもといた」と言えるかもしれない。久しく本棚にねむっていたのだが、昨夜、何気なく目にとまって手にしたら、本編をひも解く以前に『神曲』が放つその“世界観”に興を覚え、その世界観から限りなく拡がる(西洋の歴史や文化や芸術などの)知的な展開に興が乗り、朝を迎えた。
イタリア語で「La Divina Commedia」(ディヴィナ・コメーディア)という書名は後年、幾度目かの刊行時に付されたもので、直訳だと「神聖喜劇」。ダンテ自身は「コンメーディア」と呼んでいた。
日本でのタイトル『神曲』は、森鴎外が訳したアンデルセン『即興詩人』のなかで「神曲」と呼んだことに始まる。
『神曲』はダンテその人が、古代ローマの叙事詩人ヴェルギリウス に案内され、地獄・煉獄・天国をめぐる物語。
読んだといっても、本編はまだ地獄篇の6歌までしか読んでない。『神曲』はそれぞれ同じ分量の三部作(=地獄篇、煉獄篇、天国篇)合わせて100歌からできている。その6歌まで各歌と対になる細かな訳注もすべて目を通したが、本編の前にまず訳者平川祐弘によるていねいな解説を読む。
この解説に魅了された。そしてこの本は、本編に進む前にもっと周辺の知識や情報があればより一層たのしめるのではないのか……と。
そこで他の2、3のダンテ及び『神曲』にまつわる知識を拾う。まずは手っ取り早くウィキペディアを。次に、格好の案内人の文章や映像を――。
「驚嘆であり、飛翔であり、篤心だ。回復しがたい罪状であり、壮大きわまりない復讐なのである。これは偉大な作為そのものだ。それなのに至上の恋情で、比較のない感銘の比喩である。またこれは深淵の祈念で、阿鼻叫喚であって、それでいて永遠の再生なのだ。」
こう評したのは、「千夜千冊」の松岡正剛。
松岡が『神曲』の(千夜千冊の)項で述べている。このような修辞法をなんと言うのかわからないが、あの松岡にしては気迫に満ちたフレーズの運びであり、綴りと言える。
これらのフレーズだけでも途轍もない書物なのだということが、そのフレーズの意味内容も含め、その字面が持つ視覚的な勁(つよさ)とともに伝わってくる。
つづけて――。
「ここには人文の地図があり、精神の渇望があり、文芸のすべてに及ぶ寓意が集約されている。それは宇宙であり、想像であり、国家であり、そして理念の実践のための周到なエンサイクロメディアの記譜なのだ。また、あらゆる信念と堕落の構造であり、すべての知の事典であって、それらの真摯な解放なのである。」
もう、大絶賛。この物言いだけでこの古典のけたはずれたまさに古典中の古典であることの威勢とでもいえる存在感が伝わり、なおかつこの古典の比類ない素晴らしさが十分に感じとれる。それでも、いや、やはり人類の至宝ともいえるこの古典は別格なのだろう……。
さらに――。
「おそらくぼくの読書遍歴のなかで、これほどに何度もその牙城への探索を誘惑しつづけた大冊は、ほかにはないのではないか。」
それこそ、その並はずれた才知で、日本のあらゆる分野の数多くの一流の文化人や著名人を前に、講義「連塾」で彼らを唸らせたそのひと松岡正剛が、ここまでひれ伏さんばかりに謙虚な言葉を吐く。
まさに松岡の周囲が、「ダンテと心中するのではないかと思っていた」と、後になって当の松岡自身に述懐させるほどの思い入れである。
『神曲』は古典中の古典として位置づけられる書物で、まさに世界に冠たる人知の精華ともいえる長大な叙事詩だけど、それやこれやで、知的な興奮というより、むしろ「愉快」とでもいえるような、軽快な歩みにも似た知的な愉悦や快楽に一晩中ひたれた。そして最後は、睡魔との根比べに。
ダンテ『神曲』は、西洋文化の源流としての「ギリシャ・ローマの古典文化」の伝統と「キリスト教文化」の伝統の二つをあわせもっているというのだ。
そしてこの二つの伝統文化がダンテの『神曲』によって、初期ルネサンスへとつながり、それがさらに中世以降の西洋の歴史や文化や芸術などの総合的な知を育むことになるのだろう。
一例がルネサンスの巨匠たちの造形美術に著しい影響をこの古典は与えているとのことで、西洋の宗教画に描かれる死後の世界の冥界の図像などは、この古典の視覚的な描写によるものだ。聖書にさえなかった具体的な地獄や天国のイメージは、この『神曲』から出ている。
西洋的な知識にうといぼくなどは、西洋の知的な世界の拡がりだとしって、それだけでもうれしくなった。
『神曲』にはこれまで10ぐらいの日本語訳があるらしいが、旧字体の過去のものはいかんせん現代人には難しい。その点平川版は平易な文体だから中学生でも読める。それでいて格調もある。文字組みまで三行単位にしてイタリア語版を真似ていて、詩的な雰囲気も味わえ、詩的な感興や寓意が十分に伝わってくる。文句のない翻訳である。
いまは簡易な抄訳版なども出ているが(以前書店で見て、それはそれで素晴らしいのだが)、それではせっかくの『神曲』を読む意味が失せてしまう。ストーリーを追うだけのものになってしまうから。
『神曲』はいうまでもなく詩歌である。一般的に詩の一文は複数の意味をはらんでいて、それこそが寓意を織りなす世界といえる。そして何度も繰り返すが、『神曲』は一冊がまるまる寓意の世界である――だからこそ、その理解には解説や注解が欲しいし(理想的には他のテキストの併用も)、ないと踏み込んだ理解は難しい。この古典はそれこそ、読み手がそのつもりならば、いくらでも知的世界を掘り下げ、拡げて、宏大無辺の知の彷徨が可能なようだ。
平川版『神曲』は読者の理解を第一に考えて編まれており、各歌の冒頭には訳者自身の内容要約が数行はいる。これだけでも適切な案内役を果たしており、読み手の理解につながる。それに文庫本もあるそうなので、お奨めできる。
ともあれ、ぼくはまだ『神曲』という知の大海原へボートでこぎ出したばかり。まだまだ先は長い。
最後に『神曲』の名付け親、森鴎外の恍惚の叫び、を。
「ダンテの『神曲』は幽昧(ゆうまい)にして恍惚、……誰か来りて余が楽しみを分つ者ぞ」
※「幽昧」……奥深く暗いこと、明かでないこと。